子ども脱被ばく裁判第6回控訴審のご報告
3月27日に開かれた子ども脱被ばく裁判第6回控訴審の報告です。ぜひご覧ください。
次回第7回控訴審期日は7月31日(月)午後3時からです。署名を始め、引き続きのご支援をお願いいたします。
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控訴審第6回口頭弁論期日(2023.3.27)のご報告 弁護団長 井戸 謙一
子ども脱被ばく裁判に対する厚いご支援ありがとうございます。
昨年11月14日の控訴審第4回期日において親子裁判の証人尋問申請がすべて却下されるとともに裁判所から控訴人の主張の整理を指示され、今年2月1日には子ども人権裁判で不当な判決を受けたという流れの中で、弁護団は、第6回期日では弁論が終結されるものと考え、情報隠ぺい問題について追加主張をした準備書面(11)、主張全体の骨子をまとめた準備書面(12)を提出し、主張すべき主張を尽くして、期日を迎えました。この準備書面(12)の目玉は、国や福島県の違法行為によって侵害された権利ないし法的利益が、控訴人らの「自己決定権」であると位置づけたことです。
「自己決定権」とは、「個人に属する事柄について公権力の介入・干渉なしに各自が自律的に決定する自由」のことです。突然原発事故に襲われた家族は、行政からの避難指示がなければ、それぞれ決断に迫られます。被ばくは避けるに越したことはありませんが、被ばくを避けようとすれば、避難するにしても、避難しないで被ばくを軽減する対策をとるにしても、様々な負担が伴います。低線量被ばく、内部被ばくのリスク評価が定まっていない中で、それぞれの家族は今後どのように生活するかを自己決定せざるを得なかったのです。ここで正しい自己決定をするためには、行政から正しい情報が迅速に伝えられることが不可欠です。しかし、福島原発事故では、これが決定的に欠けていて、人々は正しく自己決定する権利を奪われました。
さて、口頭弁論期日では、裁判所は、国及び福島県に原告のこれらの主張に対する反論を求め、次回期日を指定しました。私たちの予想は外れ、弁論は終結されませんでした。
裁判所の真意はわかりませんが、少なくとも拙速を避け、当事者に十分議論させた上で裁判所の判断を示そうとしているようです。
なお、子ども人権裁判の判決を精査したところ、一審の福島地裁が子どもに対する被ばく対策について行政の裁量を認めた部分を否定していることが判りました。少なくとも「裁量」の問題については、福島地裁の考え方はとらないということです。
あと1回になるか、2回になるかわかりませんが、主張の追加の機会を与えられた以上、弁護団としては、その機会を利用して、必要な主張を追加していきたいと考えています。
以上
控訴審第6回期日報告(学習会・報告集会・記者会見のまとめ)
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こども脱被ばく裁判第6回控訴審 控訴人意見陳述
私は、福島原発事故から5か月後に福島県郡山市から静岡県富士宮市に避難をした原告の長谷川克己と申します。事故前は、介護事業に運営する会社に創業から勤め、取締役として多忙ながらも充実した日々を送っていました。
私は当時、原発問題にまったく無知であり、また、漠然とではありますが政府を信用していましたので、「原発が爆発した。」という話を聞いた時も、「すぐに政府が救済策を打ち出すであろう。何らかの具体的指示が出るであろう。」と思って、仕事を続けました。
しかし、政府は、「落ち着いて行動するように。直ちに健康被害はありません。」と、くり返すだけで、一向にその気配がありません。「直ちに健康被害はありません。」この言葉を裏返せば、「後々、被害があるかもしれない。」ということでもあり、恐ろしいことを言うと感じました。
また3月15日あたりから郡山市周辺にも高濃度の放射性物質が飛来していたことなど知る由もなく、甲状腺がん予防のための安定ヨウ素剤があることも知らないままでした。
それでも、郡山市では日常よりも非常に放射線量が高くなっていることはニュースや新聞などで知ることが出来、ゆえに子どもや妊婦を中心に県外に避難する人がでていることを知りましたが、4月頃になると政府はそれまで、被ばく放射線量の安全基準値を年間1ミリシーベルトまでにしていたのを、年間20ミリシーベルトまで引き上げ、学校を再開していく、地元産の食品を食べて応援していくという流れを推進していることも知りました。
私が、政府が経済を守るために放射能の防護レベルを引き上げていくというのであれば、一方で、この地から避難するべきか迷っている人たちに対しても、適切に情報を伝え、その環境を整えていくべきではないのかと思いましたが、その努力は全く感じ取れませんでした。
そして、悩み抜いた挙げ句、「このままでは子どもを守れない。」との思いに至り、震災からちょうど5ヶ月になる日、妊娠中であった妻と幼稚園児であった当時5歳の長男を連れて、ふるさと郡山を「自主避難」という形であとにしました。
政府も地元行政も「我々は経済を守ります。従えない人はご自由に。」とても言わんばかりの対応で何も責任を取らず、結局は自分たちで決め、人目を忍ぶようにこっそりと出ていかなくてはならないのかという口惜しさ、これではまるで夜逃げではないかとの情けなさが募りました。
妻の両親が我が家から百メートルほど離れた所に住んでいたので、避難当日、最後の別れにもう一度、実家に寄り挨拶をしていくことにしました。
ひと通りの挨拶を終え、両親が玄関先で見守る中、いざ、車を走らせようとした時、普段はおとなしい5歳の長男が、それまで落ち着いていたのに急に何を察したのか、「ばあば、さよなら!」、「じいじ、さよなら!」「さよなら!さよなら!」と、何度も何度も絶叫しパニックのような状態になりました。
私も、冷静を装っていた気持ちの糸が切れて、「なんでこんなことになったのか。悔しい。」という思いが湧き上がりました。「このままでは絶対終わらせない。この理不尽に必ずけじめをつけてみせる。」と強く心に刻みました。
そうしなければ、この子だけでなく、みんな田舎町で平凡に暮らしていたのに、福島がこんなことになっているのに、誰も責任を負わないなんてあり得ない、そう思いました。
もちろん、今を生きる大人である私には、このことに対しての大きな責任があります。無知であり続けたこと、何もしてこなかったことなど、「子どもや子孫に対して責任をもった生き方をして来なかった責任」です。
ただ、事故後、暫く経った頃、当時の野田首相が「一億総責任論」のようなことを言い出しましたが、それは違うと思いました。
少なくとも子どもたちには、まったく責任はないのではないかと思いました。また、「私にも責任があるが、政治家であるあなたがたには、もっと大きな責任があるはずだ。政府や原子力政策を推進してきた人たち、原子力推進の一端を担ってきた地元行政には、何百倍、何千倍の責任があるはずではないか。それを、「想定外の事故だった。」などと自己保全のための前置きをしながら、一億総責任のように一緒くたに括ることは、ずるいし間違っている。」という思いでした。
あれから12回目の3月が来ました。今もまだ、子どもたちには放射線被ばくによる健康被害が出てくるかもしれないとの不安は拭いきれません。そのような親が私だけではないことも知っています。ゆえに私の中には、「自分がこの世を去るまでに未来に対しての道筋をつけるべき」という感情が今も強くあります。
同様にこの国の政府、地元行政に対しても、この原発事故に対して、それぞれが、分相応に成すべきであったこと、成せなかったことを明らかにし、取るべき責任をとり、未来への正しい対策を整えていくべきであろうという強い思いがあります。
そして、それを捌く司法に対しても、「果たすべき責任」、「正しい姿」を、今を生きる子どもたち、民衆、そして後世の人たちの前に明らかにし、「この国には良識と正義が脈々と息づいている。」ということを示していただきたいと強く望みます。
「子ども人権裁判」判決の読み取り(井戸謙一弁護士)
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